ぼくは大人になったら漫画家になってると思います
こんにちは、イトーです。
この間、子供のころの自分に会いました。
より具体的に言うと、久々に実家に帰ったら小学校の文集が発掘されたことを、ちょっとポエティックに表現してみました。
書き出しはこうです。「ぼくは、大人になったら漫画家になってると思います」。
なってません。というか絵も描けない。何かすまんな。
読み進めていくうち、次第に当時の記憶がふつふつと泡のように脳の奥から沸き上がりました。やがてそれらが寄り集まって精細さを増していくのが分かります。
使われていなかった灰色の脳細胞が活性化し、2色から16色へ、256色から更に色味を取り戻していくかのよう。
気付けば、まるで目の前に小学生の頃の私がいるかのような臨場感で、私はその文集を読み進めていました。
心の中のイトー少年の第一声はこうでした。少年らしく張りが合って甲高い、弾むような声でした。
「いまのぼくはどんな漫画を描いてるの?」
描いてません。そもそも漫画家になっていません。すまんな。
イトー少年は私の返答にたいそうショックを受けているようでしたが、私の方が傷ついています。オトナの古傷をわざわざ言葉でなぞり直すことに何か意味があるのか?
しかし少年期の私、よく見ると意外と美少年です。この頃から長めの髪は漆を塗ったように艶やかで、前髪に隠れた目は利発そうな輝きを秘めています。
相手が私でなければ「きっと将来は大成するだろう」と小さな頭を撫でてあげたところです。実際はまだ大成していないので。
「どうして漫画家になれなかったの?」
ストレートに訊いてくる子供です。その質問が10年後に返ってくると理解しているのでしょうか。私はぶっきらぼうに返答します。
「そりゃあ、今のお前が絵を練習してないからだよ。俺のせいだけにしないでよ」
「ええ……でも、なんかそういうのは、こう、いつの間にかうまくなってるものだと思ってた」
すごくわかる。同時に、私が漫画家になれなかった理由も。
「じゃあ結婚はした?」
「したい」
「大人って20才くらいになったら皆 結婚するものじゃないの?」
「俺もそう思ってたんだけどなあ……」
「そんなぁ……」
イトー少年が意気消沈すると同時に不思議な瞬間が私を襲いました。
不意に前触れなく、ドクン、と心臓が大きく跳ねたのです。
それから間もなくすうっと、反動のように身体が軽くなる感覚。
いえ、それとも現実感が希薄になるといったほうが近いかもしれません。
「そういえば、今は何のお仕事をしてるの?」
身体の変調に戸惑いつつも「会社員」と答えかけた瞬間、私は恐ろしいことに気づきました。
僅かではありますが、私の身体が透けてきているのです。
同時に私は理解します。
そう、夢に満ち溢れたこの頃の私が、今の私のような現実を受け止めきれるはずは到底ありません。結果として「未来」の私の存在可能性が薄れてしまっているのです。
最悪の場合、若さゆえに勢いでイトー少年が命を絶ってしまうかもしれません。
しばし悩んだ後、私は「そうだ!」と腿を手で叩きます。
「将来の君は、ゲームクリエイターになっているよ!」
それは私が少年の自分に誇れる、数少ない誇りの一つです。淀み始めていたイトー少年の瞳に、再び輝きが灯るのが分かりました。
「すごいすごい! ゲームクリエイターってどんなことをするの? キャラの絵を描いたりするの?」
「いや、だから絵は描けないんだって」
「じゃあプログラムをするの?」
「プログラムも打てない」
「……じゃあ何をやってるの?」
「それ以外の全部というか……」プランナーは基本雑用というか。
また私の透明度が上がってきたので、「わー!」と叫んでその場をごまかします。不透明度50くらい。イトー少年が狂人を見る顔つきで身をすくめたのにややショックを受けますが、相手も自分だと思えばそこまで気にはなりません。
「……他に何かないの? 例えば、最近読んだ漫画とか」と少年。
「『寄生獣』読み直してる」
「それ、ぼくが今読んでる漫画……」
名作はいつ読んでもいいものです。イトーレイヤーのアルファ値がまた上昇。私は気を取り直し、
「あ、そうだ。そういえば『寄生獣』は2014年くらいにアニメ化したよ」
「え? アニメなんて観てるの? 大人なのに?」
またイトー少年の未来期待値が下がる音が聞こえました。もはや私を挟んで、10m先の八百屋の看板の文字が読めるほどに存在感が希薄です。金のオーブをこっそり偽物とすり替えてこの場を去ってしまいたい。
後がありません。このままイトー少年に世を儚まれるわけにはいきません。しかし生き汚く、退屈な大人になってしまった私が彼に希望を見出させることが果たして可能なのでしょうか?
少年期の私が何を願い、何を切に祈っていたか?
記憶を10年以上前まで遡り、そして私は気付きました。私が目の前の彼の延長であること。そして、私の骨子たる部分は10年経っても何も変わるところがないことを。
「……ひと月に」ぼそぼそと私はイトー少年に呟きます。「お前、ひと月にいくら小遣いをもらってる?」
「え? ご、500円……」
鼻にツンとくる刺激がありました。その痛みはじわりと目まで染み通り、私は涙を零します。500円。懐かしい単位でした。この時から本とゲームが好きだった少年は、いったい500円で何ができたでしょうか。かけがえのない少年期の数年は、たったそれだけの理由で無為に過ぎていったのです。
「……20万」
「えっ?」
「今の俺の月給だ」
みなし残業込みだがな、とうそぶき、私は踵を返します。元の時代に戻るために。ここにはもう留まる理由がないと示すように。
この時代との縁が薄れていっているのでしょう。遠ざかる過去の気配に紛れて、イトー少年の声が私の背を追いました。それが何という台詞だったかは分かりませんが。
ただ、今こうして私がAmazonでゲームと本を買いあさっているということは、そういうことなのでしょう。未来は守られたのです。希望という輝きによって。
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月給の額はてきとうです。(念のため)